富士山と手ぬぐい

由紀子さんが富士見荘の近くから撮影した夏富士は、すじ雲を背景に、なだらかな稜線を描いています。

そびえ立つと言うより、やさしく町を包み込んでいるよう。撮る人によって、その姿を変えるのも富士の魅力なのです。
 

 

 

「富士山を有り難く思うことについて」

 ここ数年の自分について、ぼんやり振り返ってみると、富士山を有り難く思っていることに気がつきました。こんなふうに思うようになるなんて、まったく考えもしなかったのに。生きていると、自分でも不思議に感じる変化があるものです。

 私の暮らす町は海に近く、晴れた日にはその背景に富士山を望むことができます。冬の夕暮れどきなど、夕映えに佇む富士の姿は実に神々しく、思わず立ち尽くし、うっかりすると、信心深くもないくせに手を合わせてしまいそうになります。

 この町に引っ越して来た25年ほど前は、海が大好きで、背景の富士を見つめるようなことは殆どなかったと記憶しています。でも今は、海を見つめることは少なく、富士を眺めます。今となっては、私に海は果てしなく広く、あたかも永遠があるように思え、少し疲れてしまうのです。代わりに富士は、悠々とそこにあり、受けとめてくれるような存在です。

 

 

岡田紅陽が撮影した写真集「富士」。日本人が思い描く原風景としての富士が写し出されています。この場所に居たわけではないのに、

記憶のどこかに残っているような、そんな気持ちになります。

 

 

富士見荘が誂えた手ぬぐいには瓢箪が楽しげにあしらわれています。お客様や取引先に配られていたもの。

 

 

 

「安田由紀子さんと家業と手ぬぐい」

 フェイスブックを通じて、安田由紀子さんという女性と知り合いました。富士宮で「富士見荘」という、およそ90年続く家業の割烹旅館を受け継いでいます。正確に言うと、まだ修行中の身。経営は、社長であるお父様の飯島豊さんが担っています。由紀子さんは、夫の安田英正さんと共に、父が守ってきた家業である仕事を、自分たちの生涯の仕事にすべく日々奮闘されています。

 ある日、フェイスブックに由紀子さんが投稿された写真に目が留まりました。それは何本かの手ぬぐいで、懐かしくもあり、モダンさも備えた図案は何とも気になるものでした。予てより私は手ぬぐい好きなので、手ぬぐい屋の前は素通りできないし、人の持っている手ぬぐいさえもジロジロ見てしまう有り様。当然のことながら、写真の手ぬぐいも穴があくほど細かくチェックしたのです。

 記事によると、ご実家の蔵を整理していたら見つけたとのこと。平均的サラリーマン家庭で育った我が身からすれば、蔵があること自体が凄いこと。そして、家業を継ぐ、という生き方にも興味がありました。私にとってはそれこそ未知の世界で、願っても叶わない生き方だからです。手ぬぐいと割烹旅館の仕事への妄想は無限に広がり、胸が高鳴り、斯くして富士山麓の町を訪ねることになりました。

 

富士宮第三中学校の体育祭のためにつくられた手ぬぐい。躍動感溢れる図案が何とも素敵。

グラフィックとしての完成度の高さに目を奪われます。

 

 

 

「富士宮という町、移りゆくもの、受け継ぐもの」

 富士宮という町は、一昔前までは東京の奥座敷という位置づけにあり、20軒以上もの旅館や料亭が軒を連ね、接待などでも使われる花柳界として栄えた場所であったのだそうです。また、富士信仰を持つ人にとっても縁の深い場所であることも、この町が賑わいを見せる要因のひとつでした。しかしながら時代とともに人々の足は遠のき、現在は、ひっそりとした長閑な町という印象に様変わりしています。時の移ろいは、人の心も移ろわせ、永遠の繁栄などないことを教えます。

「私が幼い頃は、芸者さんと道ですれ違うことが日常的にあったんですよ。でもね、13年前に家を継ぐために戻ってきたときは、芸者さんの姿はなく、料亭も3、4軒になってしまっていた。殆どの店が消滅していくなかで家は存続していて、それが父に対する尊敬に繋がったんです。誇らしく感じました」

 当時の由紀子さんは小さな子の子育ての真っ只中で、外で働きながら、2人の子ども(後にもう1人誕生)との日々は予想以上に大変で参っていたと言います。そして夫の英正さんは大手の懐石料理店で接客を担当していて、自分の店を持ちたいと夢を持っていました。そのタイミングが重なり、ふたりで由紀子さんの実家の家業を継ぐ決心をしたのです。

「そのときは、子育てを手伝ってもらえる有り難さが勝っていて、家業を継ぐという責任に対して、今より稀薄だったかもしれませんね。でも、蛙の子は蛙、という言葉があるように、私も気がついたら接客業という仕事を選んでいました。若い頃は紆余曲折がありましたけれど。でも、やはり家の仕事を見て育っていたから、それで育ててもらったという感謝もありましたし、結局好きなんだと思います」

 子どもの頃は、家に家族以外の何人もの人がいる状態が好きではなく、両親に対しても気を遣いながら生活していた感があった、と語る由紀子さん。極普通の家庭に憧れがあったそうです。無いものねだりはどの子にもあるし、人は、常に現状とは違う暮らしや生き方を夢見るものなのかもしれません。でもある日、自分の適正や与えられた運命のようなものに、ふと、気づくことがあります。抗いがたく導くもの。それを何と呼べばいいのかよくわからないのですが、目に見えぬ何かに支配されている、と思うことは確かにあります。

 由紀子さんは、可愛いものが大好きな少女だったのでスタイリストになることが夢だったのだそうです。また、子どもも好きだったので幼児教育の道を目指したこともありました。

「スタイリストになることは両親から猛反対され、それで、幼児教育の勉強をするために学校へ通いましたが、19歳だった自分には、その道はかなりハードなものに思えました。私に務まるような仕事ではないと実感してしまったんですね。意気地がない、と言えばそれまでなんですけど。ちょうどその頃、料理屋さんでアルバイトを始めたんです。もちろん、家業を継ぐなんて考えもなく、なんとなく。でも、そこで着物の着付けから、お花、お茶まで教えてもらって、何だかとても楽しかったんです。自分のなかにある種を芽吹かせてもらえたと思っています」

 

安田由紀子さんとお父様の飯島豊さん。家族の歴史と商いの歴史が詰まった富士見荘のバトンは、

父から娘に引き継がれようとしています。続けるために必要なのは「見栄を張るより、胸を張れ」。

先代である豊さんのお母様が残された言葉だそうです。いつでも謙虚に明日に向かう勇気の大切さを教えてくれます。

 

 

 

「役割ということについて」

 出会いは、どんなことがきっかけになるかわからないもの。人との出会いも、仕事との出会いも、予期せぬ時や場所にあったりします。私とのことも「ご縁を感じています」と、言ってくれる由紀子さん。たまたまスタイリストという職に就いたり、児童保育支援の仕事もしていたり、奇妙だけれど彼女がやりたかったことをやっている私。自分のなかでは、それなりの努力はしたし、現在も、それなりにそれは続いていると自覚していますが、だからといって血の滲むような日々であったかと言えばそんなことはなく、好きでやっていたことを続けて来たに過ぎなくて、強いて言えば、誰かに反対されることなく、応援されて、まわりの人々に支えられてここまで来ました。それもこれも、私の図々しさが可能にしたことなのだろうと思いますが、偶然と言えば偶然です。

 人には役割がある、そう考えるようになって数年。何だか上から目線の偉そうなことを書くのは気が引けますが、真実なのではないだろうか、と思っているので書いてみます。仕事も人間関係も、自分で選んでいるようで実は何かに導かれている。その時々で思うように行かないことがあっても、努力という乗りものに乗ってさえいれば、思うように行った場合と、最終的に辿り着く場所は、もしかしたら同じなんじゃないかと思うのです。

 同じ目標を持っている他者がいたとして、目に見える立場や環境などの状態が違っていても、その人の持つ本質が同じであれば、きっと似た考え方や心を持つのではないのかな。人生に於いて、それが重要なことだから、そこに到達するまでの役割は、なんとなくそれぞれに用意されていて、最初からその役割に、すんなり違和感なく進むことが出来た人は、端からは楽しそうだったり幸せそうに見える。内情は、しんどいものであっても。きっと、そんな感じなんじゃないかと、今は考えています。到達点は同じなんだけれど、JRで行くのと私鉄で行く違いとか、新幹線と在来線の違いみたいな(曖昧でスミマセン!!) ことなのかなと思います。

 だから、初対面の由紀子さんと、つらつら話が進むことを不思議には思いませんでした。好きなものへのベクトルが同じで、大切にしたいと感じるものごとが似ている。それだけで、あたたかな空気を分け合えるのです。そして、いよいよ念願の手ぬぐいを見せていただくことになりました。

 

 

火の用心などの注意喚起を促すためや、広告媒体として手ぬぐいがつくられていたことを物語る品々。

それぞれ洒落ていて、人々のセンスの良さが垣間見られます。

 

 

 

「手ぬぐいが担っていた目的とグラフィックの力」

 

「40年、50年くらい前のものが多いですかね。先日、蔵の中にあるものを整理していたら、たくさんの手ぬぐいが出てきてビックリしたんです。昔は、新年の挨拶とか、何か町の行事があるときに、商いをしている家は手ぬぐいをご挨拶の手土産として渡していたそうです。このなかには家のものもありますが、芸者さんのものだったり、取引先のものや、珍しいものでは体育祭のお知らせだったり、みんな図案が洒落ているんですよね」

 広げてみると、一本一本に創意工夫のある図案が施されています。富士宮を拠点とし、パッケージデザインなども手がけていた染色家の後藤清吉郎が図案を担当したものが数多く残されていました。人と人の繋がりに礼儀がちゃんとあり、そこに洒落っ気が加味されて、手ぬぐいというものに託された。その手間暇のかかったご挨拶のやり方に粋を感じます。

 現在でも、歌舞伎役者や噺家などの芸事を生業とする方々は、ご挨拶のための手ぬぐいを誂えていることは聞いていますが、町のなかのお付き合いで、こうしたやり取りがされることは、もう珍しくなっています。私が厚意にしていただいている、東京の下町で商いをされている方からは、毎年新年に新しい手ぬぐいを頂戴していますが、いつも、かっこいいなぁ、と憧れてしまいます。そして富士宮は、東京の奥座敷で花街であったから、この粋な文化が伝わり、生き続けていたのだと推測します。

 

 

こおりのなかにたくさん入っていたこけし。ワクワクしてしまいました。小さなものから、大きなものまでいろいろ。

それぞれ表情や趣が違うので見ていて飽きない。お好きですよね、と聞かれ、図星でした。

 

 

 

「家族の歴史を物語るもの、そして富士山」

 由紀子さんは、手ぬぐいと一緒に出てきた、家族と商いの思いを物語る品々も見せてくれました。

「こういうの、お好きなんじゃないかなと思って出しておきました。父が着ていた祖母のお手製の子ども服、いつの間にか集まっていたこけし、富士山の写真集、それから初代からのアルバムなんですけど」

 それは、言葉にするにはあまりに大きくて厚い、家族の思い出と人の人生に寄り添ったものばかりでした。こうしたかけがえのないものを目の前にすると、それを言葉で表現することの出来ない自分に直面することとなり、苦しくなったりします。が、その反面、そうした大切なものごとが確かに存在することを教えられ、意味あるものを与えてくれようとする気持ちに胸が熱くなります。見返りなど期待せずに、ただ与えてくれる。

 取材先で思いがけないものを与えられる度に、自分の役割について内省するのですが、決まって答えはその場に用意されています。今回も、由紀子さんの語る言葉にそれはありました。

「今は、自分としてここで何がやれるかを考えています。柔軟に構えて、やれる範囲で。この空間を利用して何か提案ができないか、せっかく引き継ぐのですから、伝統として良いものは受け継ぎ、自分も楽しめることを新たに挑戦してみたい。やれる根拠については説明できませんが、初代から祖父母へ、そして両親に受け継がれてきた頑張りを知っていますから」

 毎朝5時に起きて、富士山の動画を撮ることが日課になっている由紀子さん。この山があるから、この商いを続けてこられた。彼女にとって富士山は守ってくれる存在です。何かあっても、毎朝富士山に向き合うことで元気をもらえるそう。その姿が厚い雲に覆われているときでさえ、そこにあることはわかっているから。

 やっぱり、富士山はいいなぁ〜。

 

 

執筆のため、武者小路実篤はしばしば富士見荘に逗留。お世話になったお礼にと伊勢海老の絵を残してくれたのだそう。

昭和5年に創業された歴史ある割烹旅館には、文化人たちの物語も残されています。

 

 

創業者である曾祖父や曾祖母、そして祖父母に幼かった父の姿がモノクロームの写真に鮮やかに残されています。

当時の暮らしや時代背景が読み取れる貴重な資料でもあります。血縁との繋がりが薄い私にとって、こういう写真は垂涎の的。

 

| 1/9PAGES | >>