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沖潤子さんのこと・情熱の刺繍

衝動の儘に進められる針の跡は、生きもののように布を埋め尽くしていき、まるで新たな生を宿すものとして生まれ変わっていくようです。布との相性、その時感じている何かで糸の色が決められていくのですが、その妙が、沖さんならではの美の世界。

嘘のないものに惹かれる理由
ものをつくる人が好きで、その人たちの仕事を見つめることを自分の仕事にしようと決めて随分と経ちます。ものは大きく分けて二通りあると考えています。道具と情緒に働きかけるもの。後者を私はアートと捉えています。つくられるものが何であれ、その二者ともに心に響くものには共通点があるようです。私にとって、最も重要なのは一生懸命さが感じられる嘘のないもの。それは、必ずしも技術的な上手さと結びつくものではなく、もっと根本的な創作のはじまりの部分と関係が深いように思います。もちろん技術的に優れている方が良いに違いないけれど、それ以上にものをつくる人の根本的な部分(心の有り様)が大切だと思っています。道具でもアートでも、日々触れ合うものが心に与える影響は計り知れないから。真剣にものと向き合うことは、そのつくり手と対峙することで、揺さぶられたり、慰められたり、その時々の心にさまざまに作用します。嘘のないものに触れることで、そうした貴重な経験を得て来たと感じています。特に、アート作品から得るものはその傾向が強いので、自分にフィットする作品と出会うことがとても大事です。
話は少々脱線しますが、道具とアートの境界線をハッキリと区別するのはなかなか難しいことです。曖昧に入りくんでいる。そう感じるなかで、私は、このふたつを区別する境界線のための決まり事を持つことにしました。何故そうするのかと言えば、ものに振り回されないための防御壁みたいなもの。何か自分なりの決まり事を持ち込まないと、暮らしのコントロールが難しくなり際限なくものが増殖してしまいます。ただでさえものが多い暮らしをしていて、にもかかわらず魅力的なものとの出会いは次々に訪れる。自分なりのルールをつくることが必須であることを失敗しながら覚えました。暮らしのなかのルールはいくつかありますが、ここでは道具とアートに境界線を引くことについて書きます。ものの役割をハッキリさせる、道具なのかアートなのか枠を決めることで、そこからはみ出してしまうものを取り込まないようにすることができます。道具に関しては使いやすく自分に馴染むもの、つくり手の自我を強く感じさせないものを選ぶ。アート作品は、自分のなかにありそうでないもの(その逆もあり)を表現していること。作者そのものを強く感じさせること。こうして文字にすると、このふたつは決定的に違っているように思えるのですが、曖昧な領域があることも確かです。そしてその曖昧さのなかに抗いがたい魔力のような魅力が潜んでいて、矛盾を持て余しながらも、甘美な憂鬱に浸りたくなったりもします。まったく困ったものです。
話を本題に戻し、今回は好きなアートに関して書いてみます。私たちはアートなしの殺風景な人生に喜びを見い出せない生きものです。寝食と勤労以外に与えられるものがなかったとしたら、もうそれは地獄。想像すること、恋すること、という人生の素敵なパートを支えているのは音楽や美術、文学などのアート作品だと思います。その関係は持ちつ持たれつ、お互いがあって成立している。今や、表現の技法はいろいろあるので、自分にピッタリ寄り添ってくれるアート作品を探し出すことはそれほど難しい事ではありません。


幾重にも円を描くように進む針目が沖さんの作品の特徴。蜘蛛の巣のようにも、植物のように も、女性そのもののようにも見えます。「ロータスパターンと言って、インドやケルトなどでは昔からサークルを描く手法があるんですって。私は何かを象徴してとか、具体的に何かを表しているわけではないの。偶然こうなったのね」

沖潤子さんとの出会い
私の場合、刺繍やレースなどもアート作品というカテゴリーに入ります。当然のことながら、それらには趣味の手芸という領域を出ないものも存在しますが、情熱の塊のような、表現としか呼びようのないものもあって、そうした力を持つ作品を目にすると、暫くその場から動けないような状態になります。
沖潤子さんの作品を最初に観たときもそうでした。それ以前に、ご本人に会った瞬間に殆ど恋に落ちるような感覚を得たことを覚えています。私は、特に同性愛者という自覚は持っていないけれど、フィジカル的なことは別として、女性に対しても、その人のことを深く知りたいと思うことは時々あります。どんなことが好きで、どんな考え方をしていて、どのように生きているのか。そうした人としての成り立ちを知りたくて、仲良くして欲しいと思う。興味を持ってもらえなかったり、どことなく冷たくされたりすると振られたような気持ちになってしまいます。つまり、恋なんだと思うのです。沖さんと最初に出会ったとき、他の誰とも違う独特の雰囲気に引き寄せられるままに、気がついたら話しかけていました。そして、彼女が針仕事をしている人だと知り、たまたま持っていた作品を見せてもらったのです。それは、依頼主のためにつくられたタペストリーでした。パーティションとして使われるもので、いくつもの布を接ぎ合わせ、更にその上にとめどなく刺繍が施されていました。オリジナリティに溢れていて、力強く、とびきり美しい。彼女の印象と同様に、それまで見た他のどの刺繍作品とも違っていました。この人のことが好き、と感じた直感は間違っていなくて、惹かれる気持ちを胸に留めることにしました。それは、もう8年も前のことになります。
その出会いから直ぐに取材をお願いしたのですが、今より取材力も文章力も備わっていなかった(現在も大して進歩していないけど、クスン・・・。)ため、何とも不完全燃焼な取材になってしまったのを後悔しました。その理由として挙げられるのは、着目点が定まっていなかったのだと思います。彼女と彼女の作品とが持つ魅力に圧倒されていたから、浮き足立ってしまい、冷静になれず、どこにフォーカスを合わせればいいのか決められなかったのです。その後、幾度となく彼女の展覧会へ行き、作品を観て、ざっくばらんな会話を重ね、恋する気持ちも落ち着いて、いったい彼女のどこに惹かれているのかを、自分なりに分析してみることにしました。そしてわかったのは、彼女がどうしようもなく女である、ということでした。


平面的な布に刺繍するだけではなく、写真のスモックのように、服やバッグなど用途のあるも のに刺繍を施すこともあります。そのものの持つイメージと呼応しながら針を刺していくことは、ある意味セッションなのかもしれません。布の匂いを嗅いだ り、たくさん触れたり、それを沖さんは布と交わる、と言います。情熱的に相手を知ろうとするから、出来た作品は宗教画のように観る者を圧倒します。

刺繍作品と女性たちの表現
針仕事を担ってきたのは古来から女性が大半を占めています。女性の社会的地位が確立していなかった時代、表現という恵まれた活動を行える女の人は極僅かしか存在しませんでした。現在でも、女性の社会的活動を制限していたり、表現を認めていない国や宗教があることは周知の事実です。けれど、そうしたアンフェアな環境に於いても、人には自分の存在を固持する力が宿っています。自由を持たない女性たちが、針と糸を使い自分の存在を示していたと思える作品は世界中に残されています。どうしたら、こんなおびただしい針目を残せるのだろう。驚愕するような圧巻の刺繍作品を目にする度に、彼女たちの無言の叫びを聞く気がします。でも、きっとその針仕事の数々は自己顕示欲でつくられたわけではなく、大半は家族や愛する人のために、相手の健康や幸せを願ってつくられた祈りの産物で愛を根源にしたものであるでしょう。それでも、そのなかに名もなき女性たちの生きた証が息づいていることも、また確かに感じ取れるのです。


部屋は住む人を映す鏡のようなもの。沖さんの部屋は作品と素材となるさまざまなもの、そして好きなものが一体となったカオス。私は、こういう部屋が大好きで落ち着きます。住人の世界に包まれることで安心するわけです。もちろん、好きな人の部屋に限られますが。


ずっと一緒に暮らしていた愛猫のチビが亡くなって、その直後にやって来たツブ。女の子でとても人懐っこい。私たちの話をずっと聞いていました。彼女を慕う雄の黒猫が家のどこかにいつも隠れていて、ゴハンの時しか姿を見せないのだそう。

自由であることへの気づき
沖さんが、とめどなく針を進める理由にも、そうした自分との対話があるのかもしれない。彼女が針と糸を持つことになった経緯を聞いてみました。
「娘が、誕生日に手提げをつくってくれたのね。母が残してくれたリバティーの生地を使って。それは形見のように大切なものだったから、自由に切ってしまうなんて発想そのものが私にはなかったの。気ままに自由に楽しみながらつくってくれたその手提げに刺繍があって、これでいいんだって思った。そして刺繍という技法の魅力にも改めて気づいたの」
沖さんは会社員としてのキャリアがあり、企画の仕事をしていました。その日々のなかでは、マーケティングやコンセプトというものが重要視されていて、知らず知らずのうちに、商品としての価値を優先する考え方が身についてしまっていたと言います。
「自由でいい、ということに気づいたのね。子どもの頃はよく絵を描いて、他に得意なこともなかったけれど、ただ、絵だけは褒められていたから、絵を描くことが好きだった。今は、あの頃の気持ちにもう一度戻った感じ」


沖潤子さん。自由であることを何よりも大切にし、創作活動に全身全霊を注いでいます。「心を裸にされたとき、格好悪い自分ではいたくないの。これから先のことはわからないけれど、守りに入らないように生きようと思う」


この日、沖さんが身につけていたアクセサリーも自身の作品です。重ねづけしたリボン、チャーム、メダイがひとつの世界観をつくっています。服の着こなしもとても素敵。

創作のための覚悟、生きること
現在、数匹の猫と、作品づくりに没頭するために暮らす沖さんですが、会社員として働いたり、結婚や出産、子育てと、極一般的な女性としての毎日を生きていた時間もありました。沖さんと話をしていて感じるのは、その一般的な感覚とアーティストとしての特異な感覚をバランスよく持っている、ということ。そこに女の人ならではの賢さや強さがあるのです。女性には男性とは異なるペースがあるのだと、この頃よく思います。どんな経験も表現にプラスに働くことを考えれば、遠回りしているように思える日々も、けっして無駄ではなく大切なこと。特に家族のために費やされた日々を持つ女性には、それを経験していない者とは格段の差のある深さを感じます。他者のために自分の時間を捧げることで、見えなかったものが見えるようになるのかもしれません。そうした経験を経て、沖さんはひとりで表現に向き合うことを選択しました。
「やるだけのことはやった、ということかな。私には自分に向き合い、表現することがどうしても必要なのね。こうなったら絶対に、好きなように生きなければダメなんだと覚悟したのよ」
自分を生きることを諦めない尊さは、その本質を見ない者からは単なる我が儘にしか受けとめられない危うさを孕んでいます。傷つけることも傷つけられることもあるなかで、選んだこと。沖さんの覚悟は、アーティストとして生きることでした。だから、作品以外で食べていかない決意もしたのです。
「経済的にほんとに苦しい時期もありました。体調を崩したこともあったけれど、頑張ったの。信じて、毎日毎日針を持ち続けた。自分自身に再会するように。人の情というのは複雑でしょ、入りくんでいて不条理で、それでも愛おしいもの。その情を感じ取って生きていたい。作品に向かう原動力はそこにあるの。その原動力を与えてくれる人たちに対し、堂々と自分自身でいたいと思う。そうでなければ意味がないから、作品にすべてを捧げたいから、糧を得るために働くことはしないと決めたの」
静かな部屋で、その炎のような闘志が私を包んでくれているのを感じました。部屋を訪ねた日は、冷たい雨が降っていて凍えそうだった私に、沖さんは熱いお茶を何度も煎れてくれて、一番あたたかな場所に座らせてくれました。猫たちに見守られながら話をたくさんして、帰り際に、私に上着を着せてくれたとき、あたたかな手が背中を擦りました。私は、彼女に恋した理由が、よくわかった気がしています。


これまでの集大成とも言える作品集「PUNK」(文藝春秋刊)は、撮影も自身で手がけられました。完成までの道程は平坦ではなかったけれど、妥協することなく、思いを形にすることが出来たそうです。「PUNK」というタイトルは、沖さんの生き方そのものを語っていると思います。