愛しいもの、好きなものについて考える

フランスの何がそんなに好きなのか? おそらく、子どもの頃から抱いていた、

可愛いもので溢れている場所、という漠然としたイメージを持ち続けているからなのだと思います。

実際に、好みのものがたくさんあり、心くすぐられるものが生みだされ続けているから、

そのイメージは壊されることなく今も健在です。そして、素敵な老若男女がいっぱいいること。

街角のあちこちで出会う人々が、個々に当たり前のようにお洒落なのは奇跡を見るようです。

それが文化として根づいていることに憧れています。プライベートでも、仕事でも、

訪れる度に親切にされた思い出しかないのも大好きな理由です。

相性が良いのだと勝手に思い込んでいる。そういうのって大事です。
 

 

「お知らせと、好きについて文章にする理由」

 ものにまつわる思い出や、そのものを好きな理由を気になる人たちに教えていただく連載が今月中旬に始まる予定です。朝日新聞デジタル「&W」というサイトのワンコーナー。まだ、タイトルは未定なんですが、皆さま、ご一読のほど、どうぞヨロシクお願い致します。
 人に“好き”を伺う前に、先ずは自分の好きを確認しておきたいと考え、こうしてブログにまとめてみることにしました。予てから、何故そんなに好きという感覚を分析したり言葉にしたがるのか、というようなことを、折にふれ友人などから尋ねられてきました。
 おそらく私の性格的なこと、理屈っぽい性分が理由として挙げられるのでしょうが、文章を書き伝えることでお金を頂戴する立場になってからは、より意識して、言葉にできるよう努力してきたという側面もあります。このことは好きに限らず、あらゆる思いや感情、ものごとの様子についても同じで、ただ何となく○○という、曖昧さのある表現を、極力自分に許さないようにしてきたつもりです。
 そうは言っても、操れる語彙の少なさ、感覚のぬるさ、それらを放置してしまう怠惰さから、当然のこと納得のいく文章には到達できていませんし、これから先も困難を極めるのだと思います。望みは捨てませんが、いやはや、道は険しく遠いのです。
 “好き”を考えるとき、必ず大切にしていることがあります。好みというのは人それぞれであり、それに優劣は存在しないということ。世の中にはあらゆるものがあって、その多様性こそが素晴らしく、ひとつのものさしで計れるほど世界は単純ではありません。

 

 

 

スタイリングの撮影で、小道具として無意識によく使用しているのが動物ものです。

ただ、有名なキャラクターグッズにはさほど興味がなく、

のんびりとした印象の、ちょっとこんなのつくってみました、という雰囲気を持つものが好みです。

ついつい買ってしまうのはトリ、ウサギ、イヌ、リス、ヒツジが多いようです。

もし、石油王のようになれたら、ピカソ彫刻のヤギを買いたい。

こうしたバカな妄想をするとき、大金持ちっていいなぁ〜、と思います。
 

 

「好きの幅は広くていいと思える昨今」
 極論を言えば存在するすべてのものは良いものであると思います。ただ、つくられる行程や、それを取り巻く環境に不適切さがあるものは残念ながらあって、そのような悪しき事柄は改善されなくてはいけないのですが。けれど、それもよくなるためのひとつの段階と考えると、必要な場合もあるのかもしれません。カオスですね・・・。
 そして、好きなものにも、まるごと全部好きなものと、ある部分はそんなに好きではないものもあります。私の場合、まるごと全部好きというものはとても少ないように思います。けっこう好き、わりと好き、というファジーな好きが多いのです。ストイックではないので、好きの幅は広い。
 若い頃はそんな自分が嫌でした。中途半端で格好悪いと思っていたから。しかし、不思議なもので歳を重ねる毎に、それでいいのだと考えるようになり、図々しさも手伝って、これを寛容というのだと思ったりもしています。でも、好きな世界を確立し極める為には、曖昧さを排除し、何かを犠牲にしても、心に隙間をつくらずに邁進しなければ到達できない境地があることも事実でしょう。これまたカオスですね・・・。

 

 

リボンも子どもの頃から好きなものです。20代まで、装いのどこかしらにリボンを添えていました。

髪に結ぶ、襟に結ぶ、ウエストに結ぶ、その日の気分で結ぶ場所を変えていた。

だから蝶々結びは目を閉じていても上手にできます。

さすがに今はリボンを常用することはありませんが、黒いリボンなら許されるかな、と考え、

少女趣味に火がついているような心持ちの日は、細幅の黒いリボンのカチューシャを着けます。

もっとお婆ちゃんになったら太幅の黒いリボンも許されると、密かな楽しみにしています。

それから、ギフトにもリボンは欠かせないので、可愛いものを見つけたら買ってしまいます。

 

 

「好きと愛するの違いについて、その迷宮」
 自分なりの勝手な解釈ですが、好きというのは楽しめることで、愛することは受け入れることだと思っています。ですから好きの幅は自ずと広くなる。無くて困ることはないけれど、あったら嬉しい。それがあることで楽しくなる。そう感じられるものはすべて好きの範疇に収まります。大好きは、もう少し間口の狭い、いつも傍に置いておきたい感じ、とでも言えばいいでしょうか。
 一方で愛するものは、自分の一部のように感じられるほど好きの度合いが深くなったもので、たとえそこに少々気に入らない部分があったとしても、離しがたく、執着を持ってしまう。好きすぎて悩ましい存在となるような複雑さも混じります。まるごと全部好きではないのに、愛してしまうことだってある。何故なのか、その答えと迷宮の出口を、今現在、私は見つけられていません。
 執着は良くないことであると、昔から教えられてきましたが実践できていないし、おそらく、この先も無理そうな予感がします。それがなかったら、失ったら、私ではなくなるような気がするからです。それでも、本当の愛は、そういう感覚をも手放し、乗り越えたところに存在するのかもしれませんが、どうなんでしょう? 本音を言えば、そうした立派さを修得するよりも、普通の人でいて、自分に素直でいることの方がきっと幸せなんじゃないかと思います。凡人の私に、神様は相変わらず沈黙したままです。やれやれ、カオスですね・・・。

 

 

チョコレートは、もはや好きという範疇には収まらず、なければ生きていけない必須な食品。

そりやぁ私だって、一粒700円とかするような高級チョコを毎日でも食べたいですが、

そんなことは許されないので、普段のお気に入りは「THE Chocolate」のフランボワーズフレーバー。

これも板チョコとしてはお安いとは言えませんが、これくらいなら私の財布でも何とかなる

日々のご褒美の範囲内。クオリティの高い、プチ贅沢な製品をつくれるのが、

日本の菓子メーカーの凄いところだと思います。♪チョコレートはmeiji♪
 

 

「永遠の少女趣味とツールとしてのもの」
 話がだいぶ面倒になってしまったので、少し軽やかに、実際に好きなものへの話に進みたいと思います。写真で紹介したものは、ずっと変わらずに好きであり続けているものたちで、ほぼ、まるごと全部好きなものばかりです。
こうして眺めてみると、少女趣味であることを改めて認識します。自分の未成熟さ、大人としての感覚の欠如を丸裸にしているようで恥ずかしくもありますが、まぁ、今更見栄を張っても仕方ない。
 これ以外にも好きなものはたくさんあります。強欲であることで、ものに対する思いが強いのは否めませんが、言い訳をさせてもらえるならば、スタイリストという職業柄、ものを仕事として見つめ続けてきた時間が長いことも、ものへの執着を助長したと考えられます。元々好きだからこそ、この仕事を選んだとも言えますが。卵が先か、鶏が先か、というような話です・・・。
 しかし、ものが好きという性質は、私にとってはひとつの便利なツールであるのです。ものを通して、ものを媒介役にして世の中を見つめたり、人へのアプローチに役立てたりしています。そうすることで安心して人や事柄に近づける。仕事という意識と、ものという媒介役の道具を持つことで知らない人に会いに行けるのです。
 だから、そうではない場面や、媒介役を使えない対面は苦手です。誰しも、知らない人と話をするのは得意ではないでしょうけれど。私はフリーランスですから、本来は営業として、いわゆるお付き合いも必要です。でも、困ったことにそのような場所には極力参加したくない、と考えている融通の利かない人間でもあります。
 ものや映画や本など自分の興味のある範囲に、会話のテーマを設けられればいいのですが、そうした共通項がない人とは上手くその場をしのげないで、居心地の悪い思いをします。その為、知り合いの少ない集まりには顔を出さず、失礼が多くなっているかもしれ
ません。
 若いときからパーティーとか、人と知り合うための場に親しんでこなかったのもいけなかった。無理をする必要もないのかもしれませんが、いい歳をして、まわりに気遣われているなぁ、と感じる度にスマートでない自分を情けなく思い、申し訳なく感じます。

 

 

最初にバルテュスを知ったのは20代前半だったと記憶しています。

それまでアートという世界を自分に引きつけて観たことはなく、

美術館ではビッグネームの展覧会だけを観ていました。感想としては「凄いなー」とかで、

驚きとしての感動はあっても、それが自分のなかに沁み込んでくるような感覚を

得たことはありませんでした。洋書店でバルテュスの画集を見つけたとき、

えも言われぬ気持ちになり、これは私の絵だと感じたのです。

単に上手いとか、美しいという世界ではなく、

孤独さや悲しさや不条理といったネガティブな要素を、

独特のフィルターで濾過したように描き、うっすらとしたエロティシズムを可愛らしく、

ときに皮肉っぽく描いている。楽しんでいても影のようにつき纏う闇の存在を、

好きという形にして見せてくれていると感じたのです。

それは、自分の"好き"がどういうものなのか、自覚させられた初めての体験でした。

 

 


「やっぱりものが好きなんだ」
 話が脱線してしまったので、本題に戻ります。好きなものと、そうではないものの間には、どんな違いがあるのかと考えてみました。私にとっては、背景に物語があることが大事です。どうしてそれが必要になったのか、どんな人たちによってつくられ使われてきたのか、何故その形やデザインになったのか、などなど、ものを巡る物語にとても興味があります。
 特に手仕事である必要はなく、量産品であっても、アノニマスなものであっても、使う用途のないものであってもいいのです。ものが生まれるには理由があり、関わった人が必ずいて、そこにどんな思いがあったかを知りたくて仕方ない。人間らしいストーリーに出会えると、それを誰かに伝えたい衝動に駆られる。ものを見ることと、仕事をするエネルギーの源はそこにあります。
 ものの背景には「なるほどー」と、思わず膝を打ちたくなるようなお話しもありますが、クスッと笑ってしまうようなおかしな動機だったりも存在します。かと思えば、壮大な民族の意識や誇りが宿っていたり、ものにはホントに豊かにさまざまな物語が隠れています。

 それは、そのまま人々の歴史と繋がっている。泣いたり笑ったりしながら、日々を営み続けてきた私たち人類の歴史。怠けるときも、一生懸命のときもある極普通の人によって、脈々と受け継がれてきた命のリレーを、ものから垣間見ることが出来ます。知恵も悪巧みもごちゃ混ぜになって残されてきたものからは、これからも生きていくのだと勇気をもらうのです。
 名高いものでなくて、よくあるものが手に馴染むとき、泣けてきたりするのは、たぶんつくり手も私によく似た市井の人で、些細なことに悩み、臆病になったりしているのだろうと想像して、その気持ちを分け合えたと感じるからです。
 きっとこれからも、ずっと、ものを見つめることを続けると思います。“好き”や“愛する”という心が発する純粋さを信じながら。それが仕事でなくても、どんな場であっても、誰かに、私が知り得た素敵な物語を伝えられたら嬉しい。その為の言葉を探し続ける旅を、ゆるやかに果てなくしていきたいと思います。

 

私は人から「かご番長」と呼ばれているので、番を張り続けるためにも、

かごは手放せないアイテムです。もう、散々いろいろなところに

かごついての"好き"は書いてきたので、ここでは省略しますが、気がかりなのは素材について。

編み手(作家・職人)は少しずつ増えてきている印象がありますが、

山に入って素材となる植物を採取する人は年々減っています。山に入るには体力だけでなく、

山に関する知識も必要ですし、近年は里山にまで熊が出没する危険性があり、

命がけの仕事と言っても過言ではない状況。温暖化の影響も懸念されているし、

自然素材の編組製品の未来は明るくないのです・・・。

| 1/11PAGES | >>